発心の道場・阿波国(徳島)

発心(ほっしん)= 悟りを求めようと一念発起する「発心の道場(徳島県)」
阿波の国は、弘法大師が諸人救済の発願をしたことから、発心の道場と呼ばれます。所願成就を願っての修行の旅の始まりです。

 

 

徳島市は「四国三郎」の河口に広がる東四国の中心地で、弘法大師と「同行二人」で、四国遍路を思い立った人達にとっても、徳島は「発心の道場」。

 

「阿波は十里十ヵ寺」といわれ、およそ十里(40キロメートル)の遍路道のなかに、1番から10番までの札所がまとまっていて、遍路の基本的な事に気づかされる道程である。
徳島市内では、地元の人々が13番から17番までの「五ヵ所まいり」という「区切り打ち」で巡拝する習俗もある。

 

■徳島県HPより
古代、忌部氏が、吉野川流域を開拓したとき、粟がよく実ったので、この地域を粟の国といい、一方南の勝浦、那賀、海部三郡のあたりを長(なが)の国というようになったと言い伝えられている。大化の改新には、これらの国を併せて阿波の国と呼ぶようになった。
当時は、現在の徳島市の西の地域に国府が置かれ(現国府町府中)、国司が住み、ここが政治の中心となり、近くに国分寺・国分尼寺も配されて仏教文化が栄えた。
中世、鎌倉時代には、幕府による佐々木氏、小笠原氏(後の三好氏)の守護職任命が行われた。室町時代には、細川氏が勢力を張っていたが、応仁の乱を経て、阿波は三好氏の時代となり、長慶は一時畿内にまで勢力を伸ばした。しかし、やがて衰え、土佐より出た長宗我部元親が四国を征した。長宗我部氏は、全国統一を目指す豊臣秀吉に敗れ、蜂須賀家政が阿波に封ぜられた。蜂須賀氏は、現在の城山一帯に居城を構え、この時以後、徳島城下が政治・文化の中心となった。江戸時代の約300年の間、藍・塩・砂糖・葉たばこの専売によって富を築いた。
阿波と淡路の関係は古くからのもので、淡路の地名は、阿波への道ということによると言い伝えられている。万葉集の巻6の船王の歌「眉の如 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ舟 泊知らずも」は、徳島の山が歌われたものだと言われている。