第59番札所 金光山 國分寺 最勝院
こんこうざん こくぶんじ さいしょういん
JR伊予桜井駅から徒歩約2km。今治駅行(桜井団地、唐子台団地経由)国分寺下車 徒歩3分。 | |
御詠歌 | しゅごのため建ててあがむる国分寺いよいよ恵む薬師なりけり |
住所 | 愛媛県今治市国分4丁目1-33 |
TEL | 0898-48-0533 |
HP | |
宗派 | 真言律宗 |
開基 |
行基 |
宿坊 | なし |
駐車場 | 境内まで徒歩2分 |
今治市役所 電話0898-32-5200 | |
http://www.islands.ne.jp/imabari/ |
国道196号線バイパスに沿って南下、唐子山の麓にたたずむ「國分寺」。
伊予の國分寺は天平13年(741)に聖武天皇の勅願により、全国に建立された寺のひとつで、行基が開基。
当時の國分寺は現在の場所から東へ100mほどずれた位置にあり、その場所からは創建当時の巴瓦や唐草瓦なとが出土し、円形の柱座をもつ巨大な13個の礎石もあり、七重の大塔をはじめとした七堂伽藍を備えた豪壮な大寺院だったと推定されています。
この旧国分寺跡と見られる場所は国指定の史跡になっています。
弘法大師は、長く留まって五大尊の絵像一幅を書き残した。
天慶2年(939)には藤原純友の乱で堂宇は焼失。国主の援助で復興したが、元暦元年(1184)の源平合戦で再び焼失する。この時も再興したが、貞治3年(1364)には讃岐の細川右馬頭頼之が侵入して、三たび寺は焼かれた。さらに天正12年(1854)、長宗我部元親と伊予国守河野通直の戦の兵火で、3度復興した堂宇は焼けてしまった。現在の本堂は寛政元年(1789)に43代住職の恵光上人が、なだらかな勾配を持つ大屋根が印象的な本堂を再建し、逐次堂宇が増築された。
石門を入って正面が本堂。広々とした境内には大師堂、毘沙門天、書院などが並んでいる。書院には奈良時代から平安時代初期にかけての寺宝や文化財、旧國分寺からの出土品を保存している。中でも県指定の文化財で、寺宝の国分寺文書3巻は南北朝時代のものとされている。
境内には、握手修行大師の像が、穏やかな笑顔を見せていて、伊予の十大名椿の「唐椿」が、椿の季節には大輪の花を咲かせています。
本尊 | ||
薬師瑠璃光如来 | ||
真言 | ||
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか | ||
59国分寺の本堂の鬼瓦 |
龍の起源
龍は、インドの神話や中国の神話に登場する伝説上の動物です。
ただ東洋と西洋では、まったく考え方が異なり、西洋のドラゴンは悪の化身として扱われ、東洋では、特に中国は三皇五帝の神話から四霊(麒麟、鳳凰、亀、龍)として存在しました。
特に完成された「龍」は漢の高祖以来、歴代皇帝の象徴として大切に扱われてきました。
日本での龍は、4~5世紀頃、神の使いとして中国から伝来したと言われています。蛇(おろち)信仰の地盤があった我が国では当初から比較的抵抗なく受け入れられ、雲雨を自在に操る水神として崇められ、やがて四神(白虎、朱雀、玄武、青龍)となり、都の守護神として定着しました。
その後、時代を経るに従い神道だけではなく仏教の宗教想とも融合し「龍神」「龍王」として独自の神格化を遂げてきました。
龍関係の用語として…
蛟 龍 未だ龍とならない蛟(みずち)、水中に潜み雲雨に乗じて天に昇る
臥 龍 野に隠れて世に知られていない大人物(特に諸葛亮 孔明を示す)
白 龍 天帝の使者、朝鮮で高位の龍
青 龍 四神の一つ
龍 門 登竜門、黄河中流山西、陝西両省の境、鯉がここを登ると龍になるといわれる
龍 鱗 老松の皮
龍 笛 昔々、龍の声を真似て作ったといわれる雅楽の横笛
龍 顔 天子の顔
龍 眼 天子の目
龍 車 天子の専用車
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