第50番札所 東山 繁多寺 瑠璃光院

ひがしやま はんたじ るりこういん

伊予鉄道久米駅下車バス 津田団地行 畑寺下車 徒歩14分。 
御詠歌 よろずこそ繁多なりとも怠らず諸病なかれと望み祈れよ 
住所 愛媛県松山市畑寺町32 
TEL 089-975-0910 
HP  
宗派 真言宗豊山派  
開基
行基 
宿坊 なし  
駐車場 山門前に隣接 
松山市役所 電話089-948-6887  
http://www.info-matsuyama.lg.jp/ 

 

山裾の道を30分も歩けば、町を見下ろす高台にあるのが「繁多寺」。
地元では「はたでら」「はたじ」とも呼ばれている。

 

天平勝宝年間(749~757)に孝謙天皇勅願により、行基が薬師如来を納めて本尊とし開基した。
当時の寺名は光明寺で、弘仁年間(810~824)に弘法大師が訪れた折に、東山繁多寺と改名しました。
寺は小高い丘の中ほどに位置し、山門からは松山市内や、遠くは瀬戸内海を望むことができます。また、境内は広く、本堂正面の石段を上った右手に鐘楼堂があり、下には弁財天を祀った小さな池があります。

 

伊予の豪族・河野家の出身であり、時宗の開祖である一遍上人の修行の道場としても知られ、空也上人を敬愛し「踊念仏」を全国各地で布教し民衆に広めた後、地元に戻り修行した記録が残っています。

 

一時、寺は荒廃したが、応永元年(1394)に、後小松天皇の意向で七皇室の菩提寺・京都泉涌寺(せんにゅうじ)の快翁和尚が第七世住職に就任。以来、この寺は、高僧の住職がつづき、名刹として世間に知られた。
江戸時代の天和年間(1681~1684)には、名僧・龍湖が住職になり徳川家の帰依を受け寺運は大いに隆盛した。四代将軍・家綱から賜った念持物三体の一つといわれる歓喜天が歓喜天堂に祀られ、厄除け・商売繁盛・合格祈願などのご利益でも知られ、参拝客の拝む姿が見られる。

 

話として、繁多寺の住職・覚了は大旱魃から人々を救うため穴を掘り、死を覚悟で雨乞いの行に入った。 念仏の声は次第に小さくなり、10日目には覚了は亡くなったが、その後も人々は念仏を唱え、死後23日ぶりに大粒の雨が降ったという話が伝えられています。

繁多寺 繁多寺 本尊
薬師如来
真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
50繁多寺の鐘楼堂の二十四孝天井絵
繁多寺の鐘楼堂の二十四孝天井絵

 

一遍上人
一遍上人は浄土系「時宗」の開祖で、鎌倉時代(1239年)に伊予国(愛媛県)の道後で、伊予国の豪族、別府通広(出家して如仏)の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。
時宗の開祖。「捨ててこそ」を自らの最も重要な信仰のキーワードとしたので、「捨て聖(ひじり)」とよばれた。
法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学び、この時の法名は智真。

信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。

 

熊野からいったん九州へ赴き、再び本州に戻って善光寺から今度は東北まで行き、やがて生まれ故郷の四国へ戻って最後は、51歳で摂津兵庫津の観音堂(のちの真光寺)で没した。
踊り念仏を始めたのは弘安2年(1279)のことで、これは田楽などの基礎文化とも融合して、全国に爆発的な広がりを見せます。人々は貴賤の別なく踊り興じて南無阿弥陀仏を唱えました。

 

遺偈「一代聖教みなつきて南無阿弥陀仏になり果てぬ」。墓などは作らず遺体は野に捨て置いて獣に布施するようにと言い残して世を去りました。

第49番札所 西林山 浄土寺 三蔵院

51番石手寺へ3キロ

第51番札所 熊野山 石手寺 虚空蔵院