第49番札所 西林山 浄土寺 三蔵院

さいりんざん じょうどじ さんぞういん

伊予鉄道久米駅下車 徒歩5分 
御詠歌 十悪の我身を棄てずそのままに浄土の寺へまゐりこそすれ 
住所 愛媛県松山市鷹子町1198  
TEL 089-975-1730 
HP  
宗派 真言宗豊山派  
開基
恵明上人  
宿坊 なし 
駐車場 仁王門前に隣接 
松山市役所 電話089-948-6887  
http://www.info-matsuyama.lg.jp/ 

 

松山市の東南部にある有名な道後温泉郷から近い山裾にあるのが「浄土寺」。
仁王門の右側の金剛力士は盗まれた為に、目のない阿形像。
石段をあがった正面には、本瓦葺き寄棟造りの優美な建築様式の本堂が目を引く。

 

天平年間(729~748)孝謙天皇の勅願により恵明上人が創建し、行基が刻んだ釈迦如来を祀って本尊にした。
最盛期には六十六坊もの末寺をもつ大寺院であったが、弘法大師が訪れた折、寺は衰退し、伽藍は荒廃していた。弘法大師により伽藍は再興されたが、応永4年(1397)兵火により堂宇のほとんどを焼失した。
文明14年(1482)、伊予の豪族・河野通宣により伽藍が再興され、国の重要文化財に指定されている本堂は、この時に建造された。

 

三蔵院の院号の由来は、寺宝として浄土宗開祖・緑光大師、二世聖光上人、三世世良忠上人の自作像を安置していることからといわれている。

 

この地域が「空也谷」と呼ばれているのは、醍醐天皇の第二皇子であり、「踊念仏」の開祖で「市の聖」と衆生から慕われた空也上人が、天徳年間のころ当地に三年間滞留し布教した為。
その出発に際し里人に嘱望されて自像を刻んだ空也上人立像は、国指定の重要文化財である。

 

境内には、空也上人ゆかりの「空也松」が植えられていましたが、枯れてしまい、現在は根株のみが残っていて、その前には二つの水子地蔵と大きな地蔵がある。

浄土寺 浄土寺 本尊
釈迦如来
真言
おん まか きゃろにきゃ そわか
49浄土寺の空也上人像
浄土寺の空也上人像

 

空也上人
踊り念仏の実質的な創始者は空也上人(903-972)で、平安時代の中期頃までは念仏というものは僧が唱えるもので、それを聞くことのできるのも貴族階級に限られていました。それを在家の者、みんな自分で唱えてこそ、阿弥陀様の救いがあるのだとして、民衆とともに念仏を唱え、踊りました。

 

京都の六波羅蜜寺にある空也上人の像では、上人の口からたくさんの仏様が飛び出してきている様子を表しています。これは空也上人が唱えた念仏の言葉のひとつひとつが仏になったという、たいへんありがたいものであったことを示しています。

 

念仏とは「南無阿弥陀仏」と唱え、阿弥陀様に救いを求めるものですが、それによって本当に救われるのだという理論的な「往生要集」に、まとめを整理したのは源信上人といわれています。

 

醍醐天皇の皇子などといわれるが、自分の親や故郷のことを口にしたことが無く、なぞに包まれた人物。空也二十歳の時、尾張・国分寺にて髪を剃り得度し、はじめて空也と名乗った。次いで播磨国揖保郡・峰合寺で数年間の勉学をしている。その後も阿波と土佐の国境付近の湯島で修行して、奥羽地方を遊行して天慶元年(938)平安京に姿を現している。
京での空也は、氏名を明かさず市中の何所かに隠れ住み、腰に鹿の皮をまとい、鹿の角の杖を持ち、市中に出向いて物乞いをしながら首から掛けた鉦(かね)をたたいて庶民に「南無阿弥陀仏」の念仏をすすめ、貧しい人や病人を助けていた。
また、道の修繕や橋をかけ、井戸を掘るなど、公共の福祉にも貢献していたので「市の聖」(いちのひじり)と呼ばれている。その間、天慶2年(984)4月に比叡山の戒壇院で受戒し僧名を光勝と呼ぶようになったが、その後も空也を名乗っている。


空也上人の伝説は多く、牢獄の囚人の教化、市中の死骸の供養など多くあり、庶民から慕われた聖人だった。

第48番札所 清滝山 西林寺 安養院

50番繁多寺へ2キロ

第50番札所 東山 繁多寺 瑠璃光院