第34番札所 本尾山 種間寺 朱雀院

もとおざん たねまじ しゅじゃくいん

JR高知駅からバス 秋山行き 種間寺前下車すぐ。 
御詠歌 世の中に蒔ける五穀の種間寺深き如来の大悲なりけり 
住所 高知県吾川郡春野町秋山72  
TEL 088-894-2234 
HP  
宗派 言宗豊山派
開基
弘法大師 
宿坊 なし  
駐車場 境内まで徒歩1分 
春野町産業建設課 電話088-894-4387 
http://www.town.haruno.kochi.jp/ 

 

高知県中央部の穀倉地帯の田んぼが広がる穏やかな風景の中にある「種間寺」。
山門はなく、細長く延びる境内には、鐘楼、方丈、子安観音堂、大師堂、そして本堂がありますが、すべて昭和45年の台風の後に再建されたもの。本尊の薬師如来は、檜の寄木造りの座像で重要文化財に指定されています。毎年旧暦の1月21日に一般にも開帳されています。

 

創建は古く、用明天皇(6世紀後半)にさかのぼる。敏達天皇の6年(577)の頃、 大阪四天王寺を建立するために百済(くだら・今の韓国)から大勢の工匠や仏師らがやって来ていた。
寺が完成し、彼らが帰国の途についたところ、土佐沖で暴風雨に遭ってしまう。そこで、やむなくこの地に近い秋山港に避難。四尺八寸(約145cm)の薬師如来像を刻み、 本尾山の山頂に安置して航海の安全を祈願し、これが寺の発祥となった。
その後、平安時代の初期には弘法大師が来錫。 百済の仏師が彫った薬師如来を本尊に、寺を開創した。
大師は唐から持ち帰った五穀(米、麦、粟、キビ、豆)の種を寺に蒔いたことが寺号の由来になり、その後も寺は栄えて、天暦年間(947~957)には村上天皇が藤原信家を勅使として遣わされたほか、江戸・藩政時代には土佐藩主・山内家からも手厚い保護を受けた。

 

境内には「安産の薬師さん」にちなんで、大師堂の手前の観音堂には、子育観音堂があり 、妊婦が柄杓(ひしゃく)を持参して寺で柄杓の底を抜いて(通りをよくする事で難産にならない意味)安産祈願してもらい、持ち帰って無事出産の後再び奉納する習わしがあり、沢山の底の空いた多くの柄杓がずらりと並んで奉納されています。

種間寺 種間寺 本尊
薬師如来
真言
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
34種間寺の本堂
種間寺の本堂

 

大阪四天王寺

四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立。

『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦 の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、 自ら四天王像を彫り 「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安 置する寺院を建立しましょう」 と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、 建立されました。

 

聖徳太子が四天王寺を建てられるにあたって、「四箇院の制」をとられたことが 『四天王寺縁起』に示されています。 「四箇院」とは「帰依渇仰 断悪修善 速 証無上 大菩提所」 つまり仏法修行の道場である"敬田院"、 病者に薬を施す "施薬院"、病気の者を収容し、病気を癒す "療病院"、身寄りのない者や年老 いた者を収容する"悲田院"の四つの施仏教の根本精神の実践の場として、四 天王寺を建てられたといえるでしょう。

 

これらの施設は、中心伽藍の北に建てら れたようです。 その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」 といわれ、南から北へ向かって中門、 五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最 も古い建築様式の一つです。 その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6~7世 紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在とされています。

第33番札所 高福山 雪蹊寺(高福寺)

35番清瀧寺へ12キロ

第35番札所 醫王山 清瀧寺 鏡池院